格ゲーで人を殴れ

格ゲーで人を殴れ。ボタンを叩いて危害を加え、対戦相手の自由を侵害しろ。

 

今回つらつらと書いていくのは、格ゲー、つまり対戦格闘ゲームのことだ。ゲーム画面の上の方に体力を示すバーがあり、キャラクターを操って相手にダメージを与えて倒すことが目的のゲームのことだ。私は一桁の年齢の頃から格ゲーをプレイしており、人生の半分以上を格闘ゲームと共に歩んできたことになる。しかし誤解するといけないので先に言っておくが、別段私は格ゲーの強いプレイヤーという訳ではない。むしろ下手だ。私は格ゲーをしていて、喜んだり楽しんだりしている時間よりも、対戦相手にギタギタに滅ぼされ怒りに打ち震え顔を真っ赤にしキレている時間の方が長いだろう。では何故長いことプレイしてもちぃとも上手くならない私が格ゲーを続けているかというと、それは格ゲーには魅力があるからだ。

 

そう、魅力だ。ちゃおちゅーるが数多のネコに取って魅力的なように、格闘ゲームにも魅力がある。書き忘れていたが今回は格ゲーの魅力の話だ。だがこれは格ゲーを布教しようだとかそういった話ではない。あなたがこれから私が並べる文章に影響を受けて格ゲーを始めようと思うことはないと思うし、そうなることに期待はしていない。ただ、あなたは格ゲーには魅力があるということを知ることができる。それは長い人生において何の役にも立たないだろう。しかしそんなことは些細なことだ。

 

なぜなら、あなたは今、通勤電車の中で薄い電話機を使ってこの文章を読んでいるのかもしれないし、ギョウムが面倒になって逃げ込んだ会社のトイレの個室の中で、これまた薄くて光る板を使い10連ガチャガチャをするのにも飽きてこの文章を読んでいるのかもしれない。そういった奴の暇潰しをするのもこの文章の目的であるからだ。

 

さて、格ゲーの魅力の話だ。前置きとして、なぜ私がこのような事を考えるに至ったかを話しておこう。ある晩、私はプレイステーションを巧みに操作してオン・ライン=ショップにアクセスし、新作の格ゲーを購入しプレイした。それが極上のゲーム体験だったかというと残念ながらそうではなかったのだが、それから私はその理由、格ゲーの面白さ・魅力・意義について考え始めた……

 

そして数少ない知人をインターネット電話で呼び出し、格ゲーの面白さとは何か? どんな格ゲーが好きか? という話のトピックをぶちあげた。もちろんその知人らも格ゲープレイヤーで、家にはアーケードコントローラがあり毎夜ガチャガチャと騒音を出して近隣住民に迷惑をかけていることは言うまでもない。

 

そういった格ゲージャンキーの話では、格ゲーの魅力について「爽快感」や「読み合いの面白さ」等の意見があった。それを聞いて私はまあそれらも1つのファクターだろうなとは感じたが、完全に府に落ちることはなかった……。それは何故か? 本当に格ゲーの魅力はそういった要素なのか? 私はそれについて悩み、考え、ピザを食べ、コークハイを飲み、ビタミン剤を飲んで眠った……。そして、結論を出した。

 

やっと本題だ。先に結論を言っておく。格ゲーの魅力とは「人を殴れること」だ。もちろんそれだけではない。ゲームとしての競技性だとか派手で美麗な演出など、格ゲーの他の魅力も沢山あるだろう。しかしそんなことが読みたいなら今すぐ本屋に走ってゲーム雑誌を買って読むか、あなたのインターネット検索能力を駆使して格ゲーを紹介しているウェッブページにアクセスした方が良い。私が紹介するのは私の思う格ゲーの魅力だ。

 

前置きが長くなってしまった。誰も読まない利用規約みたくだらだらと長い文章を書いてしまうのは私の欠点だ。しかし繰り返すが、「人を殴れること」が格ゲーの魅力だ。通報はやめろ。別に私は犯罪者予備軍ではないし、この文章も闘争を望む反社会的なアジテーションではない。それを説明していく。

 

そもそも人は何故ゲームをプレイするのだろうか。その理由のひとつに「体験」がある。美しく可憐な女との恋愛を体験するためにときめきメモリアルドリームクラブがあり、魔王を倒して世界を救う体験をするためにドラクエやナルタジがある。溜まった物を一気に解放する体験をするためにぷよぷよがあり、音楽に乗ってリズムよくボタンを叩くためにポップンミュージックがあるのだ。さて、それでは格ゲーが提供する体験とは何だろうか? その答えこそ「人を殴れること」だ。

 

私たちは抑圧されている。法律で、ルールで、空気で、暗黙の了解で。それではここでひとつ質問だ。今までこの理不尽で不平等な世界に生きていて、あなたはこのように思ったことはないだろうか?「これもう殴って黙らせた方が早いんじゃねえかな」と。
この質問にNOと答えるならば、あなたはこれ以降の文章を読む必要はない。というより、読んでも理解はできないだろう。私とは生きているユニバースが違い、あなたは環境に恵まれている。こんなページはさっさと閉じて早く世界を良くする活動に戻って欲しいし、それが最大多数の最大幸福、功利主義だ。ベンサムも喜ぶだろう。

 

「殴って黙らせた方が早い」場面はとても多い。このストレス社会の歪みが重なってしまった時、人間は脆い。何か噴き上げるような激情に駆られ、人は容易におかしくなってしまう。例えばコンビニのレジ前、電車の中、会社で行われるしょうもない会議の最中などにだ。人はストレス耐久値の限界を超えると、周囲から見ればどう見てもおかしい理屈で口からクソを漏らし、人間としての尊厳を失っていく……。そして周りは思うのだ、「これもう殴って黙らせた方が早いんじゃねえかな」と。

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そしてもう1つ質問だ。そんなときにあなたは実際に殴ったか? 答えは恐らくNOだ。聡明で理性的なあなたはそういった場面に出くわしたとき、残り少ない「社会性」というマジック・ポイントを消費し、そのおかしくなってしまった人を無視したり宥めたりしただろう。それが二十一世紀の正解であり現実的な回答だからだ。しかし、もしこの質問にあなたがYESと答えるなら、つまり力の限り人をブン殴って黙らせて、その結果として法治国家に裁かれたと言うならば……まあ、何か飲みながら話を聞こう。駅前の魚民に8時半だ。

 

話を戻す。「殴って黙らせた方が早い」という感情が人間にはある。しかしそれを満たす手段はない。(あなたがモハメド・アリのようなボクサーなら話は別だ) その齟齬を解消するのが格ゲーというわけだ。しかし、これで話は終わりではない。「なるほどね、格ゲーはあんたのストレス解消法ってわけだ」と訳知り顔でこのページを閉じるにはまだ早い。ここから先はもう一階層ディープな話をする。

 

ここまでの文章であなたは「人を殴って黙らせたいシーンがある」ということを理解しただろう。事態を暴力を持って解決したいと思ったということだ。それでは次の質問だ。「大した理由もなく人を殴りたいと思ったことはないだろうか?」

 

「こんな質問にYESと答えるのはバーサーカーだけ! おまえは愚かなゴブリン!」と思ったかもしれない。「何か事態を解決しようとしての暴力」と「ただの衝動としての暴力」は違うと思ったかもしれない。しかしそれら2つは相反しているようで実は延長線上にある。

 

それは何故か? それは「手段としての暴力」が頭の中に浮かんだ時点で、あなたの中には暴力の衝動、狂戦士としての素質があるということだ。何故なら、別にその事態を解決するのに暴力を用いる必要はないのだから。それでも例え本当に実行に移さないとしても、事態の解決手段に暴力を思いついたということは、あなたの中に眠る闘争本能・破壊衝動が片鱗を見せたということに他ならない。

 

人が他者に攻撃したいと思うのは自然なことだ。これは数多の戦争を巻き起こしたのは全て人間ということからもわかる通り、歴史の教科書が証明している。別に性悪説とかそういう話ではない。あなたに取り憑いた悪魔がどうのこうのとか宗教じみた話でもない。ただ人間には「攻撃性を持つ衝動」があるという話だ。まずは、これを認めるべきだろう。これが認められず、「やだやだ! 人間は本来優しい生き物! 草や花を育てて生きるべき!」などと抜かす菜食主義者は、このインターネッツという砂漠の中では生きていけない。

 

さて、やっと本題だ。「人を殴りたい」という衝動を満たすのが格闘ゲームだ。これはとてもわかりやすい。他にも「人を殴る」ゲームはあるが、アールピージーやエフピーエス等のゲームと違い、格闘ゲームには基本的に攻撃ボタンしかない。そう、「話す」とか「調べる」とかいった悠長なコマンド、ボタンはどこにもないということだ。ゲームの画面には自分の操るキャラクターと敵のキャラクターだけ、そして与えられた選択肢は「攻撃」だけ……どのボタンを押してもキャラクターは攻撃を繰り出し、相手に危害を加える……。格ゲーとはそういうゲームだ。和睦とか友愛とかそういった概念からは最も遠い場所にあるゲーム……。

 

では何故、格ゲーなのかという話をしていく。他者を攻撃するゲームならば、それこそさっき挙げた、FPS……銃で相手を撃ち殺すゲームのことだ……でも良いのではないかという話だ。これも回答は単純で、格ゲーには「人に攻撃する快感」が直接感じられるという利点があるからだ。遠くにいる表情もわからない人間にいくつかの銃弾を撃ち込んで殺すのと、目の前のキャラクターを拳で殴り付けるのとでは「攻撃している感」が違う。もちろん銃撃にも「一方的に攻撃する快感」や「遠距離から、これだけ距離があれば死なないだろうと考えている間抜けを撃ち抜く快感」もあるのかも知れないが、私が求めているのはもっと原始的な、それこそ道具もなく己の身体でのみ行う直接的な暴力による快感なのだ。

 

格ゲーには更なる利点がある。それは対戦相手の人間もこちらを殴ってくるということだ。これはとても重要、メロンソーダに浮かべるアイスの存在くらい重要だ。一応断っておくが、ここから先は対人戦……AIやCPUではない、人間が操るキャラクターとの対戦についてフォーカスしていく。元々が「人を殴る」という魅力について話をしている以上、これは当然のことだ。

 

対戦格闘ゲームをプレイするとき、人間と殴りあっているということは忘れてはならない。そう、これは忠告だ。もしあなたが格ゲーを楽しみたいなら、絶対にこの意識を忘れてはならない。その意識を忘れた瞬間に、あなたのゲームプレイは枕やクッションを殴る作業に変わり、その反応の乏しさに飽き、やがてコントローラを置き……ツイッターで新着ツイートの表示をし始め……真の友はできないまま……病院のベッドで死ぬ。枕やクッションを殴るのはやめておけ。殴るなら断然生身の人間の方が良い。

 

それは何故か? 別に私は「相手も人間なんだからお互い仲良くプレイしましょう」等のマナーにとらわれた説教をしたいわけではない。先に断っておくが、私にはゲームにおいてマナーがどうのこうのといった議論はできない。何故ならそれらは高次元の悩みだからだ。私は私が生きるためにゲームをしており、ギリギリの、かなり低い次元で闘っていると考えている。あなたがデトロイトのスラムに生きる住人だった場合、高級フランス料理のマナーを覚えようとするだろうか? 明日の食い扶持の事を考えた方が利口だろう。そういった高次元の未来を見据える余裕はないのだ。

 

では何故対戦相手を意識しろというかというと、私たちはゲームで「反応」を楽しんでいるからだ。リアクションといっても良い。ゲームに何か入力をするとそこに何かしらの反応が返ってくる。Aボタンを押したらマリオがジャンプするとかそういった直接的なものから、1800円のポテトフライを奢ると女の子の好感度が上がる……とかそういったものを組み合わせ、最終的にクリアとかハッピー・エンドとかゴールとかを目指す行為を私たちは楽しんでいる。

 

しかしここで問題がひとつある。反応には「慣れ・飽き」が来るということだ。あなたは、生まれて初めてモンスターボールを投げたときのことを覚えているだろうか? キャタピーとかポッポだとかそういったポケモン相手に、たいあたり とか ひっかく だとかを使ってHPを削り、捕獲用のボールを投げて行く末を見守る……初めてのそれは「興奮する」体験だったのではないだろうか? それに対し、今ではどうだ? あなたはキャタピーに対しボールを投げることに「慣れ」てしまったのではないだろうか? そこに最初ほどの興奮は伴っていないはずだ。 「俺はいつまでもキャタピーゲットで興奮できるぜ!」という人は……まあ、虫取り少年になることをオススメする。

 

「慣れ・飽き」が来る。それは仕方のないことだ。ゲームがプログラムで動く以上、返ってくる反応の数には限りがある。あなたが海馬に障害を患ってなければいずれパターンを覚え初め、そこに新鮮さは無くなる。(しかしポケモンは面白いゲームだ。それは安心していい。新作が出たらまた一緒に育て屋の前を自転車で往復しよう)

 

しかし、対人ゲームは違う。あなたの入力に対し返ってくる反応には人間の数だけ可能性がある。こう動いたら相手はどう反応するだろう? ここを攻撃したらどう防御してくるだろうか? 格ゲーには通常そこそこの数のキャラクター選択があり、そこでもう対戦相手による反応が違いことが保証され、即ちゲーム体験を新鮮なものにする。同じキャラクターでも個人の技能・性格・プレイスタイルによって動きは違い、あなたの入力に対しそれぞれ違った反応を見せてくれる。

 

 では、ここでようやく格ゲーのタイトルをひとつ挙げる。それは「GUILTY GEAR Xrd Rev2」だ。格ゲーマーにギルティと言えばお馴染みのタイトルだが、私は解説する。ギルティギアの最新バージョンである今作は……言うならば、エインヘリャルのようなゲームだ。

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 あなたは北欧神話を知っているか? ゼウスがどうのこうの、ラグナロクがなんだかんだ、オーディン斬鉄剣で一撃必殺、みたいなあれだ。その中で、来たるべき戦いのときに備えて戦士としての腕を磨くため、男たちは毎日朝から晩まで殺し合い……そう、バトルロワイアルだ。寂れた民家で拾ったタクティカルショットガンで撃ち合い、死の瀬戸際で技量を高め合っている。そこで頭を撃ち抜かれた奴らはくたばるが……夕方には生き返る。それは神話だからだ。生き返って……また次の日には殺し合う。そうして磨き抜かれ真の戦士となった奴らの魂が……エインヘリャルと呼ばれる。

 

エインヘリャルとなるため男たちは死も恐れずに殺し合う。しくじって死んでしまっても良い、生き返るのだから。もちろんのこと、そういった環境では防御は手薄になり、如何に攻撃するかということに焦点が置かれる。どんなに防御して自分の身を守るだけでは、戦闘技能、つまり殺しの技術は磨かれないからだ。そして現代のエインヘリャルであるこのギルティギアも、そういったように「攻撃」に重きを置いている……。

 

 ギルティギアは攻撃のゲームだ。現行の格闘ゲームで最も攻撃に重点を置いていることは私が保証しよう。これは家庭用のゲームも発売されているし、ゲームセンターにアーケードの筐体もある。興味を持ったならば実際に100円玉を投入してみると良いだろう。まずGYUEEEEEEEENNNNNNNとギターの音が鳴り、ドープでヘビイなロックが流れ出し、画面が点滅して……キャラクターが登場し……あなたは死ぬ。苛烈な攻撃にあって死ぬ。今までの統計的に死ぬ確率は100%だし、これからもそうだ。

 

しかし、一度の死くらいはどうでもいい。ここで「痛いのはいやだよう。平和にカルピスを飲んで暮らしたいよう」などと抜かす奴は今すぐ家に帰って畜生と一緒に暮らすゲームをプレイするべきだ。(もっとも、最近は村の人もスマッシュやらなんやらして戦うようだが。そう考えるとアレも戦士のゲームと言える)とにかく格ゲーで必要なのは一度の死にめげず突撃することだ。

 

私も何度も突撃を繰り返し、返り討ちにあって死んだ。高田馬場で26連敗し、昼飯代を失った空腹のみじめな敗残兵としてゲーセンを後にしたこともある。ここで、少しばかり賢しらぶった奴は言うだろう。「負けてばっかで楽しいの?」などと。負けてばかりで勝てないならやる意味が無いなどと抜かす間抜けはどの世界にもいる。しかも、この言説に流され、勝てないからと言って尻尾を巻いて逃げ出して、家で泣きながらウイスキーを飲むnoobもいる。そういった奴らは目も当てられない。

 

そもそも目的は何か? 勝つことか? それとも勝てないまでも善戦し、自分の力量を高めることだったか? 違う。目的は人を殴ることだ。画面の向こうにいる人間に、ボタン入力を通して攻撃することだ。ギルティギアはそれが可能となるようにチューンナップされているし、それを制作したアークシステムワークスはバーバリアンの集まりと見て間違いない。

 

そして忘れてはならないのは、殴られるのも気持ちが良い、ということだ。対戦相手はあなたに殺意を向けてくれている。ひとつ例えをする。想像するに、セクシーでグラマーで情熱的な女から好意を向けられるのは気持ちが良いことだろう。屈強で残忍で狡猾な男から殺意を向けられるのも、ベクトルは違うが本質は同じ事だ。それが快感になる。

 

私が今回ギルティギアを挙げた理由のひとつに、「挑発」のシステムがある。あなたが挑発が設定されたボタンを押すと、操作キャラクターが対戦相手に向かって中指を突き立てたりため息をついたり、とにかく「YOU ARE 雑魚」といったアクションを取って相手を侮辱する。これはゲーム内の対戦要素に影響を与えないどころか、相手に有利に働いて自らハンデを背負う全くの無駄な動きで、つまりそこにあるのは相手を煽るという純粋な意思だけだ。これは「人の精神を殴る」行為であり、サービス精神の現れだ。これが素晴らしい。アークシステムワークスは挑発を実装した社員にきちんと社長賞を贈っているのか? それだけが私は心配だ。

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ゲームで挑発をして相手を煽る。これはサービス精神から成せる技だ。あなたはCPUやAIなどの機械に中指を突き立てるか? それはしない。私たちが中指を突き立てるのは人間相手だけだ。つまり、こちらを挑発してくる相手は自分のことを一人の人間として認めているということだ。これがどんなに奉仕の心に基づいたことなのか、あなたは理解しているだろうか?

 

私たちは普段社会で生活していて、人間扱いされていることはほとんど全くないということにそろそろ気づくべきだ。仕事でコミュニケーションをする相手はあなたのことを扱いづらい道具かなにかだと思っているし、あなたもまたソイツのことを書類を出したら印鑑を押すシステムくらいにしか考えていない。あなたが人間扱いされていると感じているのは、実のところ「故障したら面倒だしある程度丁寧に扱っている」からに過ぎない。そういった場所に本当に人間同士の心からのやりとりはあるだろうか? ギルティギアにはある。

 

そもそも、「煽る」というのを悪意に満ちた低俗な行為だと捉えているのは脳が弱い証拠だ。挑発を含めた「煽り」というのは「おまえをキレさせてやる」という包容力のある所作だ。キレるのは気持ちが良い。それは論ずるまでもないことだと思うが、一応補足しておく。あなたは社会生活の中で不都合に直面したとき、キレそうになってもキレないからフラストレーションを溜めイラつくことになる。つまりキレれば問題ない。キレるのは気持ちが良い。完璧な三段論法だ。

 

挑発のボタンを押す、それはひとつの試験だ。「おまえはキレて闘う真の戦士か? それとも利口ぶって家に逃げ帰り、インターネッツで陰口を叩くことしかできない腰抜けか?」そういった問にさらされているということだ。ここであなたの格ゲーマーとしての真価が問われる。私は対戦中に挑発を見せられると頭に血が上って嬉しくなってしまい、エンドルフィンが分泌され格ゲーをやってて良かったと感じる。

 

時節柄か最近では若干少なくなってしまったが、対戦ゲームにおいて挑発やらアピールやらの、「対戦に影響を与えない意味の無い行動」というのは昔から一定の需要がある。スコット・ジョプリン以外のエンターテイナーもまだ生きているということだ。しかしそれに対して「不快に感じる人間も居る!」などとのたまうのは自分から「ぼくは挑発されるとこまってしまいます」と弱点を晒す間抜けの所作だ。そもそも格ゲーに限らず、何か勝負事に負けて不機嫌になって周囲の人間のテンションを下げるのは未熟な行いだ。だがそもそも人間はだいたいが未熟なので、たくさんあるポンコツの中からひと際ポンコツなものを見つけたからと言って騒ぎ立てる必要はない。

 

少し話が逸れた。繰り返して私が言いたいのは「人を殴るのは楽しいし、殴られるのも楽しい」ということで、つまり格ゲーは最高に官能的でマグニフィセントということだ。あなたが対戦相手を殴ると、対戦相手もあなたを殴り返してくる。お互いの殺意がお互いを刺激し、気持ち良くなっていく。ゲームでこんな極上のコミュニケーションができるのは至福と言えるだろう。

 

ここまで言えば、格ゲーで人を殴ることが如何に素晴らしいかを1ミリほどは理解しただろう。まだわからないという人間は、私の家に来てしこたま格ゲーをプレイしろ。そしてあなたはクッションを殴るのをやめ、人間を殴ることを覚えてエネルギーを得る。それは純粋な精気というものだ。これが格ゲーの魅力だ。

 

 

格ゲーをプレイしてエネルギーを充填しろ。対戦相手に困ったら今ではネット対戦というのもある。インターネッツ越しでもあなたが真の戦士なら相手の殺意を感じ取れるのは私が保証しよう。それでは、良い人生を。これで今回の文章は終わりだ。

 

 

ピザを食べろ

ピザを食べろと言っている。チーズを舌に乗せ、生地を噛んでサラミを嚥下してカロリーを摂取しろ。

 

ピザの話をしたくなったから、はるばるインターネットの深海に潜ってはてなブログとかいう辺境のサービスを開設してみた。私は今ピザが食べたくてたまらない。しかし私は今現在ダイエット中、ピザというカロリーの海にダイブすることは死を意味する。しかし私は未練がましくピザハットのホームページからメニューを見て、めくるめくピッツァの画像にお腹を空かせる2018年の飢餓作戦だ。もはや気が狂いそうだ。こんな夜にハイボールなんて飲むんじゃなかった。

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画像はピザハットのホームぺージから拝借した。「ミート・シュプリーム」だ。真の戦士の食べ物だ。名前を知らなかったカロリーnoobは覚えておくといい。ランプをこすって魔人が出たときにメニューの名前が思い出せなかったら後悔するだろう。

 

さて、本題のピザの話だが、私が通常言う「ピザ」とはピザハットが提供するピザのことだ。別にそこに深い理由はない。他のピザは認めない! とかそういった面倒な理念は存在しないということだ。ピザ博愛主義の精神に基づいて、ドミノでもピザーラでも、スーパーで小銭を支払えば買うことのできるチルドのピザだって私は愛している。ピザはピザであることが私にとっての存在意義だ。

 

ではなぜピザハットなのかというと、それは単に私が慣れているからだ。日本におけるデリバリーピザで私はこのピザハットに一番慣れている。それはしかし週に一度頼む程度の慣れで、別に昔そこで働いていたとか実はピザハット筆頭株主だとかそういう意味ではない。

 

前置きが長くなってしまった。取扱説明書の最後の方みたいにだらだらと意味の少ない文章を書いてしまうのは私の悪い癖だ。今回はピザハットのオススメメニューを紹介していく。それはもうピザの紹介だ。小麦の最も有効な活用方法であるピザの中でも、私が最もこれは美味だと評価できるモノを紹介する。そしておめおめこの記事を読んだあなたが私と同じようにピザを食べたい気持ちを抱えて悶々とさせてやろうという狙いだ。

 

・特うまプルコギ

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「特うまプルコギ」だ。これは一番のオススメだ。もったいぶらず一番のオススメを最初に紹介するのはそれが最も効率的だからだ。人間が悩んだり判断したりする時間は総じて無駄であるため、何も考えずにピザハットに電話して特うまプルコギを注文することが時間の有効利用、牽いては充実した人生を送る手助けになるだろう。

 

一応、注意しておく。あなたがまず最初にやるべきことは、「特うまプルコギ」という単語を辞書登録することだ。もしなんらかの重要なタイミングで誤って「得うまプルコギ」なんてタイプして、その罪から見せしめとしてユダのゆりかごに吊るされたところで誰も助けてくれはしない。それだけがこの特うまプルコギのリスクだ。

 

まずはピザの説明だ。特うまプルコギはピザの上にプルコギ、つまり肉が乗っている。他にはニラと糸唐辛子、甘辛いマヨネーズに似たソースがかかっている。これが特うまプルコギだ。

 

では特うまプルコギは何が美味か? まず最初に言っておきたいのは、私がこれから語る言葉など、円周率における3.14以降の数ほどの、ほとんど無視していいような少ない意味しかもたないということだ。何故なら、本物を食べるのが最も効率が良いからだ。華厳の滝を見た事の無い奴にいくらそれを紹介してもその荘厳さが伝わらないように、特うまプルコギを食べたことのない奴にいくら紹介してもその味は伝わらないだろう。

 

しかしそれでも紹介していく。特うまプルコギの長所、それは満足感だ。私は食べ物を紹介するときに、「まろやかさ」やら「肉のうまみ」やら「独特の風味」などの味に関するどうのこうのを言うつもりはない。そんな言葉が読みたいならばマンガ雑誌に乗っているグルメ漫画を読めばいい。

 

私が特うまプルコギを紹介する理由は満足感と先に書いたが、その根拠は数字だ。私はこのピザを生涯で100枚以上食べている。ハーフ&ハーフとか、4種の具が乗っているピザがあることも考えると少々計算がやっかいだが、少なく見積もっても100枚だ。100枚を信じろ。私が送ってきたピザ人生の中で最も摂取したピザがこれであることは間違いない。それほどまでに、私はこの特うまプルコギから満足感を感じている。そして私の血肉の一部となっているのだ。ピザの紹介を読むときは、マヌケで薄っぺらい言葉よりも筆者の脂肪を信じるべきだ。

 

ピザの上にプルコギが乗る。肉が乗っている。つまるところそれが食べ物のゴールだ。わけのわからん魚や野菜などは、動物性たんぱく質から目を逸らした敗北主義者のエサで、とどのつまりおためごかしだ。それらは人生の最後の日に食べるにふさわしくない。特うまプルコギはふさわしい。このメニューを開発した人間は幸福というものを完全に理解している。そいつを総理大臣にしろ。

 

ここまでで、特うまプルコギの良さを1ミリほどは理解しただろう。まだわからないという奴は我が家に来てしこたま特うまプルコギを食べろ。啓蒙というのは人生の徳を積む行為だ。それをするのに私は一切のためらいはない。

 

さて、今すぐにピザハットインターネッツにアクセスしろ。そして注文だ。クーポンを使うといくらか賢いぞ。後は幸せの赤い箱が届くのを待てばよい。良い人生を。これで今回の紹介は終わりだ。

 

 

以下は余談だが、私は今、ダイエットなどという地獄の所業に身をやつしている。その目的は、痩せてピザを食うためだ。痩せた状態というのは、カロリーというサタンがもたらしたデモニックな数字におびえなくてもいいということだ。その状態、精神的罪悪感を完全に排除した状態で食べる特うまプルコギというのはどういう味なのだろうか。今はただ、それを楽しみにしている。あなたは先に進むといい。私もすぐに追いつく。