オススメのボードゲーマー5選

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 ボードゲームが好きだ。サイコロを転がしてコマを動かしたり、カードをめくって一喜一憂するのが好きだ。

 

 あなたはボードゲームを知っているか? 人生ゲームを思い浮かべた? それで大体あっている。人生ゲームにも辛口版とかミラクルドリーム版とか令和版とかあるだろう。例えるなら人生ゲーム剣と魔法の冒険版とか人生ゲーム宇宙開拓版とか人生ゲーム獄中日誌版とかそういうボードゲームがこの世にはたくさんある。

 

 私はそういったボードゲームを好み遊んでいるのだが、ボードゲームには欠陥がある。ほとんどのゲームはひとりでは遊べないというところだ。人生ゲームをひとりでプレイしたことがあるか? それはただの非現実的な人生のシミュレーションに過ぎないだろう。ルーレットを回しているだけで就職して結婚できるだと? 非現実的というしかない。

 

 そう、他のプレイヤーだ。あなたがボードゲームをプレイしたいと思った瞬間、隣に暇な友人が居れば別だが、そうでなければボードゲームの箱を開ける前にプレイヤーを集める必要がある。そしてこれが難しい。そもそも友人が全然いないという場合もあるし、友人は戦争に行って帰ってこないとか、友人だがウサギだからサイコロを振れないという場合もある。

 

 だからあなたは、他のプレイヤーを選ぶことができない。そして妥協に妥協を重ねてプレイヤーを集めた結果、望まぬプレイヤーを集めてしまうことになる。ものすごく性格が悪くてギネスに認定されている奴とか、前科が八犯あるし余罪もあるらしい奴とか、ジャージャービンクスとかと一緒にゲームをすることになる。

 

 そうすると、悲しい事実に気づくことになる。ボードゲームが楽しくないのだ。しかしそれは当たり前のことで、ボードゲームの楽しさは「何を」プレイするかではなく「誰と」プレイするかということが重要だからだ。そしてこれは残酷だが真実なのだ。

 

 では、誰とプレイするのが重要なのか? どういったプレイヤーと遊べばボードゲームは楽しいのか? その疑問はひとつの命題であった。そしてその答えを、私が今日、ここで発表する。だから今日は、オススメのボードゲーマー5選だ。選び抜いた5つの素質だ。それを紹介する。

 

オススメのボードゲーマー5選

1.よく笑う奴

 一つ目にして究極の答えだ。あなた達がボードゲームをプレイしているとき、「つまらないなぁ」と感じるときは果たしてどういうときか? サイコロの出目が非常に悪くてどうしようもないとき? 対戦相手がアホほど弱くて萎えてるとき? 議論が口論になり最終的にサルの喧嘩みたいになっているとき?

 

 そのどれも違う。答えは「静かなとき」だ。何をやってもプレイヤーの反応が乏しく、ただ淡々と事態が進行していく。山札からカードをめくっても、ただ書かれたカードの効果を実行するだけだ。まるで葬式だ。するとあなたはなんとなくつまらなく思い、少しづつゲームへの熱が冷めていく。そうしてゲームが終わったとき、あなたは「やっと終わった」と思って早々にゲームを片付け、スマホをいじって、Youtubeを開き、そしてあなたの日曜日は終わる。

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 しかしそこに「よく笑う奴」が居ると、そうはならない。彼らは何につけても反応する。サイコロの出目が良ければ歓喜に笑うし、逆に出目が悪ければ不運を笑う。アホが居ればアホだと笑うし、自分がアホでも笑っている。喧嘩を見れば「盛り上がってるな」と笑い、勝負の結果が良くても悪くても笑っている。

 

 そう、彼らがいると「静かに」ならないのだ。いつも笑い声が聞こえる。反応がある。どんなにゲームに本気になって緊張感が増しても、雰囲気が悪くなることはない。彼らは笑い声で場を掌握するのだ。すると不思議とゲームが楽しく思えてくる。あなたも笑い、他のプレイヤーも笑うだろう。楽しくなると食べ物も美味しいし、明日も日曜日になる。それほどまでに、「よく笑う奴」は良いボードゲーマーだ。

 

 2.しっかり悔しがる奴

 勝利の美酒を一層引き立てるものは何か知っているか? それは敗者の悔し涙だ。勝った自分がワイン片手に頬杖をついているとき、地面に這いつくばって無念と呻いている敗者の姿を見ると胸がすくような気持ちだ。彼らは競争心の強い個体だ。敵を打ち負かして自分の強さを誇示したいと考える人間だ。そしてそれを打ち負かすのが一番気持ちが良いということは、エンターテイメントの基本である。

 

 では何故彼らはそんなに悔しがるのか? それは「次の勝利のために」という彼らの精神によるものである。負けた経験から学び、次のゲームに生かそうという精神だ。屈辱を忘れれば成長を忘れる。屈辱を忘れればゲームに負ける。屈辱を忘れれば次の屈辱を味わう。そしてそれらを乗り越えて味わう勝利の美酒こそが、彼らにとってのご馳走なのだ。また、そういった彼らとプレイすることは、ダイナミックで変化のあるプレイになりやすく、それもまた楽しいボードゲーム体験になる。

 

 ここでひとつ注意が必要だが、「悔しがる」のと「恨む」ことは違う。あなたの周りに何かを履き違えて「恨む」に精神が傾いている奴がいたときは……まあ、握りしめた右手でパンチすることが最も現実的な解決策だろう。また、皆が本気で勝利を目指しているなか「こんなゲームにマジになっちゃってどーすんの」とスカした態度を取る奴は戦士になれなかった腰抜けなので気にしなくていい。

 

3.勢いのイイ奴

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 ヒトは、未知を恐れる生物である。そしてそれは何事にも存在する。もちろんボードゲームにもだ。新しい選択肢、今までにやったことの無い戦略、ときに無謀とも思えるようなアクション。確かに未知の領域に踏み込むのは恐怖を伴う。しかし、そこにドラマがあるのだ。そして、その未知に切り込むのは、いつでも「勢いのイイ奴」だ。

 

 要するに彼らは「イケるだろう」という黄金の精神の持ち主だ。理屈とか論理とかではなく、ただ自分の中にある全能感に身を任せ、選択肢を選び取る。マヌケと紙一重だが、彼らには彼らの行動原理がある。そしてそれは、何かの一歩を踏み出すのに必要な素養なのだ。

 

 あと単純に、勢いのイイ奴とのボードゲームはテンポが良くて快適だということもある。

 

4.自分が一番カワイイ奴 

 ボードゲームに限らず、ゲームの良いところとは何か? その答えの一つに「敵意をむき出しにして戦うことができる」という点がある。日常、我々は本性を隠して社会に溶け込んでいる。あなたがコンビニでレジを打っているとき、ふとマスクをつけていない客がやってきて、レジカウンターで咳やらクシャミなどをバラまいていく。「コイツ正気か?」あなたはそう思いつつも笑顔で対応し「ありがとうございましたー」などと心にも無いことを言う。立てた中指は心の奥に隠しながら。それが社会だからだ。だがその中指を相手に突きつけて良い場がある、それがゲームだ。

 

 対戦型のゲームなら、それが許される。殴られたら殴り返して良いということだ。別にこっちから先に殴っても良い。しかも、ボードゲームなら相手の顔を見ながらそれをすることができる。なんと素晴らしいことか! それができるのは全て、「勝利のため」という大義名分があるからだ。「勝利のため」なら迷惑な攻撃は勇猛果敢な一撃に変わる。勝者の席が一つならばそこに自分が座るため、周り全員を蹴落とさなければならない。そしてその行為に罪悪感を持つ必要はなく、むしろ罪悪感を持つ方がゲームによっては悪と言える。つまり、自分が一番カワイイ奴が集まって行うゲームこそが、本当に熾烈でエキサイティングなゲームになりえるのだ。

 

5.丁寧な奴

 ボードゲームには、往々にして「運」の要素を孕むものである。その偶然に抗い、少しでも良い結果が出るように試行錯誤するのが楽しみのひとつでもある。そしてその「運に抗おう」とする奴はたいてい丁寧な奴だ。彼らは状況をよく見て、仮説を立て、次善の策を考える。そしてそういう奴がいると、ゲームに深みが生まれるのだ。

 

 経験は無いだろうか? いつものメンバーで行ういつものゲーム、それはもう何度も遊び尽くしたゲームであり、取るべき戦略は決まっている。ランダムな要素はあるが、それを見て次の一手を決めるのはあなたにとって半ば自動的だ。なぜなら、それがあなたにとって効率的だからだ。しかし、ゲームは効率でやるものではない。効率的にやるのは平日のファッキン・労働だけでいい。楽しむはずのゲームを効率で行ってはいけない。そうすると遊び尽くしたゲームはさらに色褪せ、あなたの瞳は濁り、「もう飯食いにいかねえ?」と誰かが言い始め、よくわからない揚げ物を食べて、あなたは余計な脂肪をつけることになる。

 

 しかし「丁寧な奴」が場にいると違う。彼らはいつでも考えている。「経験的に」分かっていることにも疑いの目を向けている。つまり、ソビエトの入国審査官のようにゲームに対して疑心を抱いているのだ。「この手は本当に最善手か?」「もっと状況をよくできる手はないのか?」「このゲームのランダム要素は、本当に完全なランダムか?」…………それらの疑問の99%は徒労に終わるだろう。それこそ効率的ではない。しかし残りの1%を見つけたとき、プレイヤーの間には激震が走る。新しい戦略、新しい展開、そして新しい結末…………遊び尽くしたと思っていたゲームは輝きを取り戻し、ダイスを握る手は興奮に震え、脳内にはアドレナリンが放出される。その週末は輝かしい思い出の1ページになり、あなたは死の間際、その記憶を思い出して笑顔でくたばることができるだろう……。

 

・そして自分に返る……

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  以上が、オススメのボードゲーマー5選だ。これに該当するプレイヤーを集め、ゲームを行うと良いだろう。それでは、さらばだ…………などと言って文章を締めることができないということぐらいはわかっている。そう、ここまで読んであなたは思ったはずだ、「それで、お前は?」と。大層な事を言っておいて自分ができていないようでは、言葉の意味は薄れる。それだけのことを言うならおまえはそれ相応のプレイヤーなんだろうな……?

 

 答えから言うとそれはNOだ……。あくまでこれは私の目指す姿だ。しかしこれを読んで、その疑問が浮かんだならばあなたはスタートラインに立っているとも言える。つまり長々と書いたこの文章は、自戒でもある。こうしてインターネットに刻み付けることで、自分が未来へ進む際の羅針盤とするのだ。

 

 クラウス・トイバーは、「また明日あなたと遊びたいと、言われるようなプレイで遊びましょう」と言ったらしいが、結局はそういうことなのだろう。 今回はこうして、ボードゲーマーとしての心構えを私は刻んだ。ここに来た奴が何を読み取ろうと勝手だが、あなたがボードゲーマーであるならば私と卓を囲むこともそう遠くない未来だろう。私が差し向けた盗賊があなたの重要な資源を奪い取るということだ。(あるいは、その逆。WTF!!)その時まで、ダイスを磨いて待っているとしよう…………。

 

 

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ティッシュポップコーン世界大会に参加してみた

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インターネットにて開催された「ティッシュポップコーン世界大会」に参加した記録です。

 

■プロローグ

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「金は命より重い……」とはご存知、利根川幸雄の名言であるが、もしその金が命よりもずっとずっと軽い、ティッシュやポップコーンなどに左右されるとしたら…………?

■世界大会、始まる。

 ある日、いつも通りインターネットをしていた私は、「ティッシュでポップコーンを作る大会」なる情報を手に入れた。詳細は以下のリンクである。

https://tissue-popcorn.com/

ティッシュポップコーン世界大会公式サイト)

 要約すると、「ティッシュを丸めてポップコーンを作るのが一番上手い奴に賞金100万円!」という話だった。

 率直な感想としては、「まだ世間にお金って余ってるんだなあ」という所である。国内大会編もやってないのに世界大会編とは週刊少年ジャンプもビックリの急展開だ。

 しかし「100万円」という本気を見せている主催・運営に対し、「くだらねー」とスルーしてしまうのもつまらない。ここはひとつ世にも珍奇な「ティッシュポップコーン世界大会」に参加してみようと思い立ったのが事の始まりである。

 

ティッシュポップコーン、意外と難しい。

 世界大会と銘打ってはいるが、所詮やる事はティッシュを丸めてポップコーンに似せるだけだ。まあ5分もあればそれっぽいモノも作れるだろうと考えた私は、イスに座ったままテーブルに備えてあったティッシュを一枚手に取った。

 だがしかし、その考えは余りにも甘かったのである。

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ティッシュポップコーン試作1号

 これは私が最初に作ったティッシュポップコーンである。"ティッシュポップコーン"は名称が長いので、今後はTPと略すことにする。このTPは、一応なんとなくポップコーンのような形をしているが、しかし"ポップコーンに似たティッシュ"の域を出ていない。

 それではダメだ。仮にも世界大会である。この調子ではアメリカ代表のTPメイカーに「HAHAHA! ジャポンのTPはこんなものデスカー? 所詮島国デース!」などと言われてしまうだろう。

もっと、真に迫るTPを作らなければならない。

 

■調査編 ポップコーンについてよく知ろう。

 私は考えを改めた。愚かだった。最初私は、ティッシュポップコーンについて「気狂いが考えた馬鹿な遊び」と軽んじていたのである。

 それではダメだ。背筋を正し、真剣になる必要がある。

 そもそも、ティッシュを丸めてポップコーンを作るのに、見本・目標であるポップコーンが手元に無いのは言語道断という他ない。私は椅子から立ち上がった。

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最寄りのMOVIX

ポップコーンといえば映画館だ。私は自宅から一番近い映画館へと向かった。

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売り場にあるポップコーン製造マシーン

 「天気の子」「ライオン・キング」などのポスターが並ぶ中、チケット売り場にはわき目もふらず売店に直行する。

「ポップコーンをください」

 と私が言うと、店員は当たり前のように館内で食べる用のカップで提供してきた。

「持ち帰りにできますか?」

 と言うと、店員は少々面食らったようであった。私も映画館を純粋に飲食店としての用途のみで訪れたのは初めてだったので、無理もないだろう。

 しかしそういった客も想定されているのか、手提げのビニール袋に入れてくれた。これは非常にありがたかった。

 帰りがけ、サンプルは多い方が良いと考えスーパーやコンビニでいくつかポップコーンを購入した。

 

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購入したポップコーン一覧

 左手前にあるのが映画館で購入したモノである。早速、購入してきたこれらを開封・調理する。

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開封

  それぞれ形状や色味に若干の傾向があることがわかった。また、これは調べて初めて知ったことなのだがポップコーンは形状で二種類の名前があるらしい。形状が蝶のように広がっているものを「バタフライ」と呼び、大きく丸く膨らんでいるものを「マッシュルーム」と呼ぶらしい。

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バタフライとマッシュルーム

  更に知ったことであるが、ポップコーンの材料となるコーンは、サラダに入ってるようなスイートコーンとは品種が違い、ポップコーン用の品種は「爆裂種」と呼ぶらしい。爆裂種。モンスターハンターでしか聞かないような名前だが、実際そういう名の品種なのだから面白い。

 しかし今はTPの話だ。モンハンの話ではない。PS4に伸びる手を止め、ポップコーンに意識を戻す。

 

■見本を定め、材料を選ぶ。

  5種のポップコーンを矯めつ眇めつ観察し、今回の見本とするのはセブンイレブンで販売しているモノに決定した。理由としては、

ティッシュへの彩色がルール違反(と思われる)のレギュレーションである今大会において、バター等がかけられたモノは色味が似せられない。

・形状が最も「ポップコーンと聞いて私がイメージするもの」に近かった。

 の二点が主な理由である。

 こちらが見本である。

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今回の見本(注:この画像はTPではなく本物のポップコーン)

 見本ポップコーンの次に考えるのはTPの材料であるティッシュだ。こちらも、近隣で調達できるものをいくつかピックアップしてきた。

 

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 余談だが、ティッシュの銘柄をたくさん抱えてスーパーのレジに向かったとき、レジのおばちゃんに「こんなに何に使うの? ティッシュの研究?」と聞かれた。「ポップコーンを作るんです」と答えたならばと狂人だと思われ今後の生活に支障をきたすので、「まあそんなところです」と曖昧に答えるしか手が無かった。

 こちらも開封して比較していく。

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ティッシュ比較

 写真だとパッと見の違いはなかなか分からないが、上段に配置されている少し高級なティッシュは厚みがあることがわかる。

  今回のTP用ティッシュに求めるものは先述した理由により白さ・明度だったので、画像編集ソフトに取り込み、それぞれのティッシュが映っている部分の色を何点かスポイトで選択し、最も平均的に明度が高かったものを選んだ。

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Vが明度(Value・Lightness・Brightness)を表している。

 その結果、⑥Scottie  カシミヤ を今回のTPの材料として採用することに決定した。

 

■試行錯誤、始まる。

 見本とするポップコーンと材料となるティッシュが決まった。後は実際に作っていくだけである。私は元々あまり手先が器用な方ではないため、細々と作業していくのは得意ではないが、見本に近づけていく作業は新鮮でなかなか楽しかった。

  具体的な私のTP作成法は以下の通りだ。まず最初にティッシュを丸め、そこから形を出していく。

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  細かい部分の形を作るのには、自宅にあった爪楊枝を使用した。

 先述した通り、私はけっこう楽しんで作業を続けていた。あーでもないこーでもないと考えながら試行錯誤をするのは面白いものだ。しかし、どう工夫しても超えられない壁がひとつあった。

 その壁について説明する前に、この時点での試作品を見ていただこう。

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試作2号

 まだまだティッシュである。さて、ここで先ほどの「見本」として表示した画像を再度表示しよう。

 

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見本

 この形をよく見てほしい。ポップコーンには「本体」と「パーツ」に分かれていることがよくわかる。

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赤枠が「本体」、青枠が「パーツ」と分類できる。

 攻撃判定の図示ではない。パーツ分けの表示である。ポップコーンには、膨らんでいて一番大きな「本体」となる部分と、それらのサイドに陣取る「パーツ」によって構成されているのだ。

 この「パーツ」が、ティッシュでは再現することができない。

 これにはティッシュポップコーンの構造的に仕方のない点だと言える。ティッシュを丸め、まず本体の部分を作成してからパーツとなる部分を分裂させようとすると、ティッシュに厚みが出てしまい、"くびれ"ができずに不格好なものとなってしまうのだ。

 それが如実に表れているのが先に掲載した試作2号のTPである。本体部分からパーツ部分へと接続している部分が、ティッシュの厚みによって膨らんでしまい、不格好になってしまうのだ。


 また、ここにきて別の問題も発生した。比較のため開封したポップコーンをポリポリと食べながらTP作成をしていたのだが、圧倒的に量が多いのである。一人暮らしで消費する量ではなかったが、昼食と夕食をポップコーンだけで済ませてもまだまだあり、満腹中枢が鬼のように刺激されて眠くなってしまった。

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ポップコーン食は口内が水分を欲するためすぐお腹いっぱいになってしまう。

 結局この日は、そのまま寝てしまった。

 その後も、何日か同じような製法で試行錯誤を続けたが、完成度の上昇は見られなかった。

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試作N号 長時間ティッシュを触っていると手が渇いてカサカサになるという気づきがあった。

■ブレイクスルー、来たる。

 TPの作成を始めてから数日が経っていた。先述の問題からどうにも完成度の上昇が見られなかった私は、何か視点を変えようとティッシュポップコーン世界大会の公式ホームページを閲覧していた。

 そして、以下の一文を見たのである。

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ティッシュポップコーン世界大会公式HPより引用)

 一見、なんてことはないQ&Aに見える。

 しかし、私の脳内には衝撃が走っていた。

 今までの私はティッシュをそのまま二枚一組で使用していた。二枚を分けて薄い一枚の状態で使用しTPを作成することも試していたが、そちらでは単純に量が足りず本体とパーツをそれぞれ作成することができなかったのである。

 だがここにきて、私にひとつの発想が舞い降りた。

「薄い一枚を二枚組み合わせて、ひとつのTPを作れば……!」

 その発想から考案されたのが、下記の「コア(Core)&カバー(Cover)製法」である。

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Core&Cover製法。これが次世代のTP作成のスタンダードである。

 図解すると単純な発想だが、この方法ならばカバー部分を「パーツ」作成に集中させることが可能なため、作業性の改善とパーツ部分の完成度の上昇が望めるのだ。この方法を思い付いたとき、私は思わず身体が震えあがった。

 

 そこからはまたトライ&エラーの繰り返しである。使用する道具もピンセットと裁縫針になった。ポップコーンの表面の細かな隆起を表現しつつ、光の反射を抑制するために針でティッシュをつついて表面をけば立たせるという手法も会得した。(こちらは手芸のニードルフェルトから発想を得ている)

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最終的にTP作成に使用した用具

■完成
 そしてようやく、満足いくTPが完成した。

 

 カメラを用立て、投稿用の写真を撮影した。

 

 ここまで読んで頂いた方には感謝を伝えたい。

 

 こちらがこの記事の本題、私のティッシュポップコーンである。

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ティッシュポップコーン ver1.00

 

■エピローグ
 ここまでのTPを通して、様々な試行錯誤を行った。最初は遊び半分の気持ちだったが、途中から食品サンプルを作っているような感覚になっており楽しかった。それは収穫と言えるだろう。

 暇つぶしとして始めたにしては、合計でかなりの時間を要したが、それだけ熱中していたとも言える。

 最終的に完成したTPも、なかなか愛着が沸いてしまったのでデスクにでも飾ろうと思った。

 

 しかし、

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ティッシュポップコーン世界大会公式HPより

 ………………。

 

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格ゲーで人を殴れ

格ゲーで人を殴れ。ボタンを叩いて危害を加え、対戦相手の自由を侵害しろ。

 

今回つらつらと書いていくのは、格ゲー、つまり対戦格闘ゲームのことだ。ゲーム画面の上の方に体力を示すバーがあり、キャラクターを操って相手にダメージを与えて倒すことが目的のゲームのことだ。私は一桁の年齢の頃から格ゲーをプレイしており、人生の半分以上を格闘ゲームと共に歩んできたことになる。しかし誤解するといけないので先に言っておくが、別段私は格ゲーの強いプレイヤーという訳ではない。むしろ下手だ。私は格ゲーをしていて、喜んだり楽しんだりしている時間よりも、対戦相手にギタギタに滅ぼされ怒りに打ち震え顔を真っ赤にしキレている時間の方が長いだろう。では何故長いことプレイしてもちぃとも上手くならない私が格ゲーを続けているかというと、それは格ゲーには魅力があるからだ。

 

そう、魅力だ。ちゃおちゅーるが数多のネコに取って魅力的なように、格闘ゲームにも魅力がある。書き忘れていたが今回は格ゲーの魅力の話だ。だがこれは格ゲーを布教しようだとかそういった話ではない。あなたがこれから私が並べる文章に影響を受けて格ゲーを始めようと思うことはないと思うし、そうなることに期待はしていない。ただ、あなたは格ゲーには魅力があるということを知ることができる。それは長い人生において何の役にも立たないだろう。しかしそんなことは些細なことだ。

 

なぜなら、あなたは今、通勤電車の中で薄い電話機を使ってこの文章を読んでいるのかもしれないし、ギョウムが面倒になって逃げ込んだ会社のトイレの個室の中で、これまた薄くて光る板を使い10連ガチャガチャをするのにも飽きてこの文章を読んでいるのかもしれない。そういった奴の暇潰しをするのもこの文章の目的であるからだ。

 

さて、格ゲーの魅力の話だ。前置きとして、なぜ私がこのような事を考えるに至ったかを話しておこう。ある晩、私はプレイステーションを巧みに操作してオン・ライン=ショップにアクセスし、新作の格ゲーを購入しプレイした。それが極上のゲーム体験だったかというと残念ながらそうではなかったのだが、それから私はその理由、格ゲーの面白さ・魅力・意義について考え始めた……

 

そして数少ない知人をインターネット電話で呼び出し、格ゲーの面白さとは何か? どんな格ゲーが好きか? という話のトピックをぶちあげた。もちろんその知人らも格ゲープレイヤーで、家にはアーケードコントローラがあり毎夜ガチャガチャと騒音を出して近隣住民に迷惑をかけていることは言うまでもない。

 

そういった格ゲージャンキーの話では、格ゲーの魅力について「爽快感」や「読み合いの面白さ」等の意見があった。それを聞いて私はまあそれらも1つのファクターだろうなとは感じたが、完全に府に落ちることはなかった……。それは何故か? 本当に格ゲーの魅力はそういった要素なのか? 私はそれについて悩み、考え、ピザを食べ、コークハイを飲み、ビタミン剤を飲んで眠った……。そして、結論を出した。

 

やっと本題だ。先に結論を言っておく。格ゲーの魅力とは「人を殴れること」だ。もちろんそれだけではない。ゲームとしての競技性だとか派手で美麗な演出など、格ゲーの他の魅力も沢山あるだろう。しかしそんなことが読みたいなら今すぐ本屋に走ってゲーム雑誌を買って読むか、あなたのインターネット検索能力を駆使して格ゲーを紹介しているウェッブページにアクセスした方が良い。私が紹介するのは私の思う格ゲーの魅力だ。

 

前置きが長くなってしまった。誰も読まない利用規約みたくだらだらと長い文章を書いてしまうのは私の欠点だ。しかし繰り返すが、「人を殴れること」が格ゲーの魅力だ。通報はやめろ。別に私は犯罪者予備軍ではないし、この文章も闘争を望む反社会的なアジテーションではない。それを説明していく。

 

そもそも人は何故ゲームをプレイするのだろうか。その理由のひとつに「体験」がある。美しく可憐な女との恋愛を体験するためにときめきメモリアルドリームクラブがあり、魔王を倒して世界を救う体験をするためにドラクエやナルタジがある。溜まった物を一気に解放する体験をするためにぷよぷよがあり、音楽に乗ってリズムよくボタンを叩くためにポップンミュージックがあるのだ。さて、それでは格ゲーが提供する体験とは何だろうか? その答えこそ「人を殴れること」だ。

 

私たちは抑圧されている。法律で、ルールで、空気で、暗黙の了解で。それではここでひとつ質問だ。今までこの理不尽で不平等な世界に生きていて、あなたはこのように思ったことはないだろうか?「これもう殴って黙らせた方が早いんじゃねえかな」と。
この質問にNOと答えるならば、あなたはこれ以降の文章を読む必要はない。というより、読んでも理解はできないだろう。私とは生きているユニバースが違い、あなたは環境に恵まれている。こんなページはさっさと閉じて早く世界を良くする活動に戻って欲しいし、それが最大多数の最大幸福、功利主義だ。ベンサムも喜ぶだろう。

 

「殴って黙らせた方が早い」場面はとても多い。このストレス社会の歪みが重なってしまった時、人間は脆い。何か噴き上げるような激情に駆られ、人は容易におかしくなってしまう。例えばコンビニのレジ前、電車の中、会社で行われるしょうもない会議の最中などにだ。人はストレス耐久値の限界を超えると、周囲から見ればどう見てもおかしい理屈で口からクソを漏らし、人間としての尊厳を失っていく……。そして周りは思うのだ、「これもう殴って黙らせた方が早いんじゃねえかな」と。

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そしてもう1つ質問だ。そんなときにあなたは実際に殴ったか? 答えは恐らくNOだ。聡明で理性的なあなたはそういった場面に出くわしたとき、残り少ない「社会性」というマジック・ポイントを消費し、そのおかしくなってしまった人を無視したり宥めたりしただろう。それが二十一世紀の正解であり現実的な回答だからだ。しかし、もしこの質問にあなたがYESと答えるなら、つまり力の限り人をブン殴って黙らせて、その結果として法治国家に裁かれたと言うならば……まあ、何か飲みながら話を聞こう。駅前の魚民に8時半だ。

 

話を戻す。「殴って黙らせた方が早い」という感情が人間にはある。しかしそれを満たす手段はない。(あなたがモハメド・アリのようなボクサーなら話は別だ) その齟齬を解消するのが格ゲーというわけだ。しかし、これで話は終わりではない。「なるほどね、格ゲーはあんたのストレス解消法ってわけだ」と訳知り顔でこのページを閉じるにはまだ早い。ここから先はもう一階層ディープな話をする。

 

ここまでの文章であなたは「人を殴って黙らせたいシーンがある」ということを理解しただろう。事態を暴力を持って解決したいと思ったということだ。それでは次の質問だ。「大した理由もなく人を殴りたいと思ったことはないだろうか?」

 

「こんな質問にYESと答えるのはバーサーカーだけ! おまえは愚かなゴブリン!」と思ったかもしれない。「何か事態を解決しようとしての暴力」と「ただの衝動としての暴力」は違うと思ったかもしれない。しかしそれら2つは相反しているようで実は延長線上にある。

 

それは何故か? それは「手段としての暴力」が頭の中に浮かんだ時点で、あなたの中には暴力の衝動、狂戦士としての素質があるということだ。何故なら、別にその事態を解決するのに暴力を用いる必要はないのだから。それでも例え本当に実行に移さないとしても、事態の解決手段に暴力を思いついたということは、あなたの中に眠る闘争本能・破壊衝動が片鱗を見せたということに他ならない。

 

人が他者に攻撃したいと思うのは自然なことだ。これは数多の戦争を巻き起こしたのは全て人間ということからもわかる通り、歴史の教科書が証明している。別に性悪説とかそういう話ではない。あなたに取り憑いた悪魔がどうのこうのとか宗教じみた話でもない。ただ人間には「攻撃性を持つ衝動」があるという話だ。まずは、これを認めるべきだろう。これが認められず、「やだやだ! 人間は本来優しい生き物! 草や花を育てて生きるべき!」などと抜かす菜食主義者は、このインターネッツという砂漠の中では生きていけない。

 

さて、やっと本題だ。「人を殴りたい」という衝動を満たすのが格闘ゲームだ。これはとてもわかりやすい。他にも「人を殴る」ゲームはあるが、アールピージーやエフピーエス等のゲームと違い、格闘ゲームには基本的に攻撃ボタンしかない。そう、「話す」とか「調べる」とかいった悠長なコマンド、ボタンはどこにもないということだ。ゲームの画面には自分の操るキャラクターと敵のキャラクターだけ、そして与えられた選択肢は「攻撃」だけ……どのボタンを押してもキャラクターは攻撃を繰り出し、相手に危害を加える……。格ゲーとはそういうゲームだ。和睦とか友愛とかそういった概念からは最も遠い場所にあるゲーム……。

 

では何故、格ゲーなのかという話をしていく。他者を攻撃するゲームならば、それこそさっき挙げた、FPS……銃で相手を撃ち殺すゲームのことだ……でも良いのではないかという話だ。これも回答は単純で、格ゲーには「人に攻撃する快感」が直接感じられるという利点があるからだ。遠くにいる表情もわからない人間にいくつかの銃弾を撃ち込んで殺すのと、目の前のキャラクターを拳で殴り付けるのとでは「攻撃している感」が違う。もちろん銃撃にも「一方的に攻撃する快感」や「遠距離から、これだけ距離があれば死なないだろうと考えている間抜けを撃ち抜く快感」もあるのかも知れないが、私が求めているのはもっと原始的な、それこそ道具もなく己の身体でのみ行う直接的な暴力による快感なのだ。

 

格ゲーには更なる利点がある。それは対戦相手の人間もこちらを殴ってくるということだ。これはとても重要、メロンソーダに浮かべるアイスの存在くらい重要だ。一応断っておくが、ここから先は対人戦……AIやCPUではない、人間が操るキャラクターとの対戦についてフォーカスしていく。元々が「人を殴る」という魅力について話をしている以上、これは当然のことだ。

 

対戦格闘ゲームをプレイするとき、人間と殴りあっているということは忘れてはならない。そう、これは忠告だ。もしあなたが格ゲーを楽しみたいなら、絶対にこの意識を忘れてはならない。その意識を忘れた瞬間に、あなたのゲームプレイは枕やクッションを殴る作業に変わり、その反応の乏しさに飽き、やがてコントローラを置き……ツイッターで新着ツイートの表示をし始め……真の友はできないまま……病院のベッドで死ぬ。枕やクッションを殴るのはやめておけ。殴るなら断然生身の人間の方が良い。

 

それは何故か? 別に私は「相手も人間なんだからお互い仲良くプレイしましょう」等のマナーにとらわれた説教をしたいわけではない。先に断っておくが、私にはゲームにおいてマナーがどうのこうのといった議論はできない。何故ならそれらは高次元の悩みだからだ。私は私が生きるためにゲームをしており、ギリギリの、かなり低い次元で闘っていると考えている。あなたがデトロイトのスラムに生きる住人だった場合、高級フランス料理のマナーを覚えようとするだろうか? 明日の食い扶持の事を考えた方が利口だろう。そういった高次元の未来を見据える余裕はないのだ。

 

では何故対戦相手を意識しろというかというと、私たちはゲームで「反応」を楽しんでいるからだ。リアクションといっても良い。ゲームに何か入力をするとそこに何かしらの反応が返ってくる。Aボタンを押したらマリオがジャンプするとかそういった直接的なものから、1800円のポテトフライを奢ると女の子の好感度が上がる……とかそういったものを組み合わせ、最終的にクリアとかハッピー・エンドとかゴールとかを目指す行為を私たちは楽しんでいる。

 

しかしここで問題がひとつある。反応には「慣れ・飽き」が来るということだ。あなたは、生まれて初めてモンスターボールを投げたときのことを覚えているだろうか? キャタピーとかポッポだとかそういったポケモン相手に、たいあたり とか ひっかく だとかを使ってHPを削り、捕獲用のボールを投げて行く末を見守る……初めてのそれは「興奮する」体験だったのではないだろうか? それに対し、今ではどうだ? あなたはキャタピーに対しボールを投げることに「慣れ」てしまったのではないだろうか? そこに最初ほどの興奮は伴っていないはずだ。 「俺はいつまでもキャタピーゲットで興奮できるぜ!」という人は……まあ、虫取り少年になることをオススメする。

 

「慣れ・飽き」が来る。それは仕方のないことだ。ゲームがプログラムで動く以上、返ってくる反応の数には限りがある。あなたが海馬に障害を患ってなければいずれパターンを覚え初め、そこに新鮮さは無くなる。(しかしポケモンは面白いゲームだ。それは安心していい。新作が出たらまた一緒に育て屋の前を自転車で往復しよう)

 

しかし、対人ゲームは違う。あなたの入力に対し返ってくる反応には人間の数だけ可能性がある。こう動いたら相手はどう反応するだろう? ここを攻撃したらどう防御してくるだろうか? 格ゲーには通常そこそこの数のキャラクター選択があり、そこでもう対戦相手による反応が違いことが保証され、即ちゲーム体験を新鮮なものにする。同じキャラクターでも個人の技能・性格・プレイスタイルによって動きは違い、あなたの入力に対しそれぞれ違った反応を見せてくれる。

 

 では、ここでようやく格ゲーのタイトルをひとつ挙げる。それは「GUILTY GEAR Xrd Rev2」だ。格ゲーマーにギルティと言えばお馴染みのタイトルだが、私は解説する。ギルティギアの最新バージョンである今作は……言うならば、エインヘリャルのようなゲームだ。

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 あなたは北欧神話を知っているか? ゼウスがどうのこうの、ラグナロクがなんだかんだ、オーディン斬鉄剣で一撃必殺、みたいなあれだ。その中で、来たるべき戦いのときに備えて戦士としての腕を磨くため、男たちは毎日朝から晩まで殺し合い……そう、バトルロワイアルだ。寂れた民家で拾ったタクティカルショットガンで撃ち合い、死の瀬戸際で技量を高め合っている。そこで頭を撃ち抜かれた奴らはくたばるが……夕方には生き返る。それは神話だからだ。生き返って……また次の日には殺し合う。そうして磨き抜かれ真の戦士となった奴らの魂が……エインヘリャルと呼ばれる。

 

エインヘリャルとなるため男たちは死も恐れずに殺し合う。しくじって死んでしまっても良い、生き返るのだから。もちろんのこと、そういった環境では防御は手薄になり、如何に攻撃するかということに焦点が置かれる。どんなに防御して自分の身を守るだけでは、戦闘技能、つまり殺しの技術は磨かれないからだ。そして現代のエインヘリャルであるこのギルティギアも、そういったように「攻撃」に重きを置いている……。

 

 ギルティギアは攻撃のゲームだ。現行の格闘ゲームで最も攻撃に重点を置いていることは私が保証しよう。これは家庭用のゲームも発売されているし、ゲームセンターにアーケードの筐体もある。興味を持ったならば実際に100円玉を投入してみると良いだろう。まずGYUEEEEEEEENNNNNNNとギターの音が鳴り、ドープでヘビイなロックが流れ出し、画面が点滅して……キャラクターが登場し……あなたは死ぬ。苛烈な攻撃にあって死ぬ。今までの統計的に死ぬ確率は100%だし、これからもそうだ。

 

しかし、一度の死くらいはどうでもいい。ここで「痛いのはいやだよう。平和にカルピスを飲んで暮らしたいよう」などと抜かす奴は今すぐ家に帰って畜生と一緒に暮らすゲームをプレイするべきだ。(もっとも、最近は村の人もスマッシュやらなんやらして戦うようだが。そう考えるとアレも戦士のゲームと言える)とにかく格ゲーで必要なのは一度の死にめげず突撃することだ。

 

私も何度も突撃を繰り返し、返り討ちにあって死んだ。高田馬場で26連敗し、昼飯代を失った空腹のみじめな敗残兵としてゲーセンを後にしたこともある。ここで、少しばかり賢しらぶった奴は言うだろう。「負けてばっかで楽しいの?」などと。負けてばかりで勝てないならやる意味が無いなどと抜かす間抜けはどの世界にもいる。しかも、この言説に流され、勝てないからと言って尻尾を巻いて逃げ出して、家で泣きながらウイスキーを飲むnoobもいる。そういった奴らは目も当てられない。

 

そもそも目的は何か? 勝つことか? それとも勝てないまでも善戦し、自分の力量を高めることだったか? 違う。目的は人を殴ることだ。画面の向こうにいる人間に、ボタン入力を通して攻撃することだ。ギルティギアはそれが可能となるようにチューンナップされているし、それを制作したアークシステムワークスはバーバリアンの集まりと見て間違いない。

 

そして忘れてはならないのは、殴られるのも気持ちが良い、ということだ。対戦相手はあなたに殺意を向けてくれている。ひとつ例えをする。想像するに、セクシーでグラマーで情熱的な女から好意を向けられるのは気持ちが良いことだろう。屈強で残忍で狡猾な男から殺意を向けられるのも、ベクトルは違うが本質は同じ事だ。それが快感になる。

 

私が今回ギルティギアを挙げた理由のひとつに、「挑発」のシステムがある。あなたが挑発が設定されたボタンを押すと、操作キャラクターが対戦相手に向かって中指を突き立てたりため息をついたり、とにかく「YOU ARE 雑魚」といったアクションを取って相手を侮辱する。これはゲーム内の対戦要素に影響を与えないどころか、相手に有利に働いて自らハンデを背負う全くの無駄な動きで、つまりそこにあるのは相手を煽るという純粋な意思だけだ。これは「人の精神を殴る」行為であり、サービス精神の現れだ。これが素晴らしい。アークシステムワークスは挑発を実装した社員にきちんと社長賞を贈っているのか? それだけが私は心配だ。

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ゲームで挑発をして相手を煽る。これはサービス精神から成せる技だ。あなたはCPUやAIなどの機械に中指を突き立てるか? それはしない。私たちが中指を突き立てるのは人間相手だけだ。つまり、こちらを挑発してくる相手は自分のことを一人の人間として認めているということだ。これがどんなに奉仕の心に基づいたことなのか、あなたは理解しているだろうか?

 

私たちは普段社会で生活していて、人間扱いされていることはほとんど全くないということにそろそろ気づくべきだ。仕事でコミュニケーションをする相手はあなたのことを扱いづらい道具かなにかだと思っているし、あなたもまたソイツのことを書類を出したら印鑑を押すシステムくらいにしか考えていない。あなたが人間扱いされていると感じているのは、実のところ「故障したら面倒だしある程度丁寧に扱っている」からに過ぎない。そういった場所に本当に人間同士の心からのやりとりはあるだろうか? ギルティギアにはある。

 

そもそも、「煽る」というのを悪意に満ちた低俗な行為だと捉えているのは脳が弱い証拠だ。挑発を含めた「煽り」というのは「おまえをキレさせてやる」という包容力のある所作だ。キレるのは気持ちが良い。それは論ずるまでもないことだと思うが、一応補足しておく。あなたは社会生活の中で不都合に直面したとき、キレそうになってもキレないからフラストレーションを溜めイラつくことになる。つまりキレれば問題ない。キレるのは気持ちが良い。完璧な三段論法だ。

 

挑発のボタンを押す、それはひとつの試験だ。「おまえはキレて闘う真の戦士か? それとも利口ぶって家に逃げ帰り、インターネッツで陰口を叩くことしかできない腰抜けか?」そういった問にさらされているということだ。ここであなたの格ゲーマーとしての真価が問われる。私は対戦中に挑発を見せられると頭に血が上って嬉しくなってしまい、エンドルフィンが分泌され格ゲーをやってて良かったと感じる。

 

時節柄か最近では若干少なくなってしまったが、対戦ゲームにおいて挑発やらアピールやらの、「対戦に影響を与えない意味の無い行動」というのは昔から一定の需要がある。スコット・ジョプリン以外のエンターテイナーもまだ生きているということだ。しかしそれに対して「不快に感じる人間も居る!」などとのたまうのは自分から「ぼくは挑発されるとこまってしまいます」と弱点を晒す間抜けの所作だ。そもそも格ゲーに限らず、何か勝負事に負けて不機嫌になって周囲の人間のテンションを下げるのは未熟な行いだ。だがそもそも人間はだいたいが未熟なので、たくさんあるポンコツの中からひと際ポンコツなものを見つけたからと言って騒ぎ立てる必要はない。

 

少し話が逸れた。繰り返して私が言いたいのは「人を殴るのは楽しいし、殴られるのも楽しい」ということで、つまり格ゲーは最高に官能的でマグニフィセントということだ。あなたが対戦相手を殴ると、対戦相手もあなたを殴り返してくる。お互いの殺意がお互いを刺激し、気持ち良くなっていく。ゲームでこんな極上のコミュニケーションができるのは至福と言えるだろう。

 

ここまで言えば、格ゲーで人を殴ることが如何に素晴らしいかを1ミリほどは理解しただろう。まだわからないという人間は、私の家に来てしこたま格ゲーをプレイしろ。そしてあなたはクッションを殴るのをやめ、人間を殴ることを覚えてエネルギーを得る。それは純粋な精気というものだ。これが格ゲーの魅力だ。

 

 

格ゲーをプレイしてエネルギーを充填しろ。対戦相手に困ったら今ではネット対戦というのもある。インターネッツ越しでもあなたが真の戦士なら相手の殺意を感じ取れるのは私が保証しよう。それでは、良い人生を。これで今回の文章は終わりだ。

 

 

ピザを食べろ

ピザを食べろと言っている。チーズを舌に乗せ、生地を噛んでサラミを嚥下してカロリーを摂取しろ。

 

ピザの話をしたくなったから、はるばるインターネットの深海に潜ってはてなブログとかいう辺境のサービスを開設してみた。私は今ピザが食べたくてたまらない。しかし私は今現在ダイエット中、ピザというカロリーの海にダイブすることは死を意味する。しかし私は未練がましくピザハットのホームページからメニューを見て、めくるめくピッツァの画像にお腹を空かせる2018年の飢餓作戦だ。もはや気が狂いそうだ。こんな夜にハイボールなんて飲むんじゃなかった。

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画像はピザハットのホームぺージから拝借した。「ミート・シュプリーム」だ。真の戦士の食べ物だ。名前を知らなかったカロリーnoobは覚えておくといい。ランプをこすって魔人が出たときにメニューの名前が思い出せなかったら後悔するだろう。

 

さて、本題のピザの話だが、私が通常言う「ピザ」とはピザハットが提供するピザのことだ。別にそこに深い理由はない。他のピザは認めない! とかそういった面倒な理念は存在しないということだ。ピザ博愛主義の精神に基づいて、ドミノでもピザーラでも、スーパーで小銭を支払えば買うことのできるチルドのピザだって私は愛している。ピザはピザであることが私にとっての存在意義だ。

 

ではなぜピザハットなのかというと、それは単に私が慣れているからだ。日本におけるデリバリーピザで私はこのピザハットに一番慣れている。それはしかし週に一度頼む程度の慣れで、別に昔そこで働いていたとか実はピザハット筆頭株主だとかそういう意味ではない。

 

前置きが長くなってしまった。取扱説明書の最後の方みたいにだらだらと意味の少ない文章を書いてしまうのは私の悪い癖だ。今回はピザハットのオススメメニューを紹介していく。それはもうピザの紹介だ。小麦の最も有効な活用方法であるピザの中でも、私が最もこれは美味だと評価できるモノを紹介する。そしておめおめこの記事を読んだあなたが私と同じようにピザを食べたい気持ちを抱えて悶々とさせてやろうという狙いだ。

 

・特うまプルコギ

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「特うまプルコギ」だ。これは一番のオススメだ。もったいぶらず一番のオススメを最初に紹介するのはそれが最も効率的だからだ。人間が悩んだり判断したりする時間は総じて無駄であるため、何も考えずにピザハットに電話して特うまプルコギを注文することが時間の有効利用、牽いては充実した人生を送る手助けになるだろう。

 

一応、注意しておく。あなたがまず最初にやるべきことは、「特うまプルコギ」という単語を辞書登録することだ。もしなんらかの重要なタイミングで誤って「得うまプルコギ」なんてタイプして、その罪から見せしめとしてユダのゆりかごに吊るされたところで誰も助けてくれはしない。それだけがこの特うまプルコギのリスクだ。

 

まずはピザの説明だ。特うまプルコギはピザの上にプルコギ、つまり肉が乗っている。他にはニラと糸唐辛子、甘辛いマヨネーズに似たソースがかかっている。これが特うまプルコギだ。

 

では特うまプルコギは何が美味か? まず最初に言っておきたいのは、私がこれから語る言葉など、円周率における3.14以降の数ほどの、ほとんど無視していいような少ない意味しかもたないということだ。何故なら、本物を食べるのが最も効率が良いからだ。華厳の滝を見た事の無い奴にいくらそれを紹介してもその荘厳さが伝わらないように、特うまプルコギを食べたことのない奴にいくら紹介してもその味は伝わらないだろう。

 

しかしそれでも紹介していく。特うまプルコギの長所、それは満足感だ。私は食べ物を紹介するときに、「まろやかさ」やら「肉のうまみ」やら「独特の風味」などの味に関するどうのこうのを言うつもりはない。そんな言葉が読みたいならばマンガ雑誌に乗っているグルメ漫画を読めばいい。

 

私が特うまプルコギを紹介する理由は満足感と先に書いたが、その根拠は数字だ。私はこのピザを生涯で100枚以上食べている。ハーフ&ハーフとか、4種の具が乗っているピザがあることも考えると少々計算がやっかいだが、少なく見積もっても100枚だ。100枚を信じろ。私が送ってきたピザ人生の中で最も摂取したピザがこれであることは間違いない。それほどまでに、私はこの特うまプルコギから満足感を感じている。そして私の血肉の一部となっているのだ。ピザの紹介を読むときは、マヌケで薄っぺらい言葉よりも筆者の脂肪を信じるべきだ。

 

ピザの上にプルコギが乗る。肉が乗っている。つまるところそれが食べ物のゴールだ。わけのわからん魚や野菜などは、動物性たんぱく質から目を逸らした敗北主義者のエサで、とどのつまりおためごかしだ。それらは人生の最後の日に食べるにふさわしくない。特うまプルコギはふさわしい。このメニューを開発した人間は幸福というものを完全に理解している。そいつを総理大臣にしろ。

 

ここまでで、特うまプルコギの良さを1ミリほどは理解しただろう。まだわからないという奴は我が家に来てしこたま特うまプルコギを食べろ。啓蒙というのは人生の徳を積む行為だ。それをするのに私は一切のためらいはない。

 

さて、今すぐにピザハットインターネッツにアクセスしろ。そして注文だ。クーポンを使うといくらか賢いぞ。後は幸せの赤い箱が届くのを待てばよい。良い人生を。これで今回の紹介は終わりだ。

 

 

以下は余談だが、私は今、ダイエットなどという地獄の所業に身をやつしている。その目的は、痩せてピザを食うためだ。痩せた状態というのは、カロリーというサタンがもたらしたデモニックな数字におびえなくてもいいということだ。その状態、精神的罪悪感を完全に排除した状態で食べる特うまプルコギというのはどういう味なのだろうか。今はただ、それを楽しみにしている。あなたは先に進むといい。私もすぐに追いつく。